小森森林軌道跡再訪
2014/02/01 埼玉県小鹿野町 小森森林軌道-A
 
@はこちら。
 
 先ほどの吊り橋跡から1km程下って来た。この辺りで軌道は県道側の左岸へと渡っていたようなのだが、この前後はかなりしっかりとした護岸が造られ、軌道の痕跡を見ることは出来ない。
 
 しばらく県道を進むと、川沿いで護岸工事が行われている地点を過ぎるが、この辺りで開設当初の軌道は右岸へと渡ったらしい。この辺りは「海尻」と呼ばれ、かつて大きな土砂崩れが起こり多くの人が無くなった場所だという。
 
 開設当初の軌道は、ここから1km以上に渡り右岸を進んでいたらしいが、資料でもこの辺りのルートははっきりしないと書かれている。
 
 途中、川沿いに石垣の連なりが見えるが、写真を撮った時は、あまりに川面に近いので、あれは軌道跡のものではないだろうと思っていた。ただ、今思い返せば、もしかしたら堰によって川底が底上げされたということもあるのかも知れない。ただ、この先に堰があったかを確認していないので、今のところは推測でしかないが・・・。
 
 更に県道を下る。この辺りで開設当初の軌道は左岸へ渡って来たようだ。そして、この場所にひとつの石碑が立っている。
 
 「開谷宝道作明元人碑」と書かれたこの石碑は、この小森谷に開削された馬道の開拓者を称えたものなのだそうだ。この馬道とは、小森軌道が開削される以前にこの地に存在した道で、無数に掛けられた桟橋や木橋で結ばれたこの馬道によって、往来や物資の運搬が行われていたという。今回資料によって分かったのだが、2年前に訪れたときに辿った地図上の点線区間も、実はどうやらこの馬道の名残りだったようだ。
 
 突然だが、歩いて川岸に降りて来た。対岸には石垣が見えているが、資料によると、この区間に開設当初の軌道の、ある残骸が残っているのだという。それを見る為には、対岸へと渡らなければならないのだが、この前後に、川を渡ることが出来る橋などは一切存在しない。
 
 なので、今日はこの為に長靴を持ってきた。なるべく水深の浅い地点を選び、これで対岸へと渡って行く。ふふふ、年末に下見しておいて良かったぜ。
 
 対岸へと渡って来た。大正期に築かれた石垣が、今でもしっかりとその姿を留めている。
 
 路盤上に上がって来た。先ほどの分校脇の軌道跡と違い、こちらは純粋な大正期開設当初の軌道跡だ。だが、その路盤はと言えば、やはりここでも土砂が堆積し、ほぼ斜面と一体化してしまっているため、路盤の上を辿るのも一苦労だ。
 
 更に進むと、次第に道は荒れ、石垣もろとも崩れ落ちてしまっている。そんな路盤を、目を凝らしながら歩いていると、それは突然姿を現した。
 
 土砂の中から突き出た、曲がりくねった錆びた鉄の板。これ、何だと思います?これは「板レール」といい、木材のレールの上に張り付けられていた鉄の帯板なのだそうだ。
 小森軌道開設当初のレールは木製のものを用いていたが、トロッコの車輪と木材レールの抵抗を抑える為に、後に木製レールの上に帯板が張られるようになったという。その後、施業森林組合への移管後に、鋼性の本レールへと交換されていったという。
 地表に露出している部分は全部で2m程だろうか。あとどれだけ土中に埋もれているのかは不明だが、人の力で引き抜けるようなものでは無さそうだ。
 
 それにしても・・・大正時代に敷設された森林軌道のレールの一部が、まさかこの平成の世になっても残っているなんて・・・!今回、資料によってその存在を知り、何をおいてもこれだけは見ておきたいと思っていたが、こうして実際に目の当たりにできるとは、もう感無量だ。
 
 この板レール、レールとは言ってもその幅は3cm、厚さは1cmにも満たない小さなもので、自分は今回資料によって初めて板レールというものを知ったのだが、今現在用いられているΩ型の断面をした通常のレールとは全く異なるこの姿は、改めてこの軌道が運用されていた遠い時代を偲ばせる。
 
 この板レールは、表面に開けられた穴から釘によって木材レールに打ち付けられていたが、実際にその釘も確認することが出来た。ちなみにこの反対側の表面は、錆でレールと癒着して釘の頭は判別出来なかった。
 
 そういえば、この小森軌道のレールは全て献納されたというはずだが、こうしてここにその一部が残っていたということは、この区間は施業森林組合への移管から献納決定当時までの間には既に崩れ落ち、献納を免れたということなのだろうか。どちらにしろ、こんな錆だらけの姿となっても、こうしてその姿を残していたというのは奇跡のようなことだ。本当に素晴らしい!
 
 それにしても本当に良い物を見れた。何だかすっかり満足してしまったが(笑)、起点まではまだ先がある。もう少しだけお付き合いいただこう。
 
 県道へと戻り、更に下って行く。この辺りで開設当初の軌道は一旦こちら側へ渡っていたようだが、この辺りでも明確な痕跡を見ることは出来ない。しかし、写真に写るコンクリート吹き付けの斜面に、平場のような地形が見えているが、もしかしたら軌道敷の形状がそのまま残されたものなのだろうか。
 
 ここは小森川の最狭部といわれる箇所で、画像中央付近で川を挟み込んだような形状の上に橋が掛けられ、右岸から左岸へと軌道が渡っていたという。
 
 ここは現在の県道上に架かる大谷橋。上の写真は下流側から上流側を見たものだが、かつての軌道時代にも、ここには橋が掛けられていたらしい。
 
 

 『小森森林軌道 マルキョウが刻んだ生活の轍』 山中正彦(平成25年発行)より転載  
 画像は、同じく下流側から上流側に向けて写したもので、当時架橋されていた吊り橋の姿がくっきりと写されている。現在は自動車道となったこの道の、かつてはレールが往来の手段だった頃の貴重な姿が、よく残っていたものだと思う。
 
 更に下ると、県道は橋を渡り左岸へと移るが、開設当初の軌道は、そのまま右岸を進んでいたという。
 
 ここは、県道から林道大堤線へと向かう分岐地点。大堤橋で対岸へと渡っているが、そこからそのまま下流へ向けて町道が延びている。どうやらこの町道が、開設当初の軌道のルートと重なっているらしい。
 
 せっかくなので、ここからはこの町道を辿って行くとしよう。
 
 今では綺麗に舗装されたこの道も、かつて大正期に開削された軌道敷を足掛かりに拡幅されたに違いない。そう思ってみると、こんな細い道でも何か特別なものに見えてくる気がしてくる。
 
 ここは、先ほどの大堤橋から1km程下った地点に架かる黒橋。現在掛かるこの橋はコンクリート製の立派なものだが、軌道時代には、ここから更に数十m下った地点に吊り橋が掛けられていたという。
 
 ここがその架橋地点。今では橋の痕跡は全く残っていないが、路肩に突き出た部分が橋台となっていたのだろう。
 
 

 
 

  上2枚共、『小森森林軌道 マルキョウが刻んだ生活の轍』 山中正彦(平成25年発行)より転載 
 これが吊り橋当時の黒橋の姿。橋は川面からかなり高い位置を渡っていたことが分かる。
 
 ただ、現在はこの下に堰堤が築かれ、橋までの高低差は軌道当時よりも低くなっているようだ。
 
 そして、対岸を見ると、茂る木の奥に、なにやら吊り橋の主塔のようなものが見える。コンクリートっぽいので、軌道当時のものではないだろうが、軌道の運用終了後に、この場所に車道の旧橋が存在したことがあったのだろうか。対岸へと渡ってみたが、ちょうどこの位置は、トタンの柵で囲われた私有地になっていて確認することは出来なかった。うー、気になる・・・。
 
 という訳で、県道37号線との分岐点まで戻って来た。かつての軌道の上流端から起点まで一通り辿って来たが、資料によって、前回は分からなかったもの含めて、かなり細かく軌道時代の遺構を意識して辿ることが出来た。今回の内容は、その資料を元に遺構を眺めながら辿ることに専念したが、資料にはその他にも小森森林軌道についての詳細な歴史が事細かに記されているので、小森森林軌道について興味のある方は、機会があれば是非見ていただきたいと思う。