小森森林軌道跡再訪
2014/02/01 埼玉県小鹿野町 小森森林軌道-@
 
 埼玉県小鹿野町に、かつて大正時代に敷設された森林軌道があった。その名を小森森林軌道という。
 
 人力のトロッコとして運用されていた小森森林軌道は、昭和13年に戦時下における鉄材献納の決定がなされ、軌道の撤去に伴いその歴史に幕を下ろした。その後、小森川に沿って延びるその線形を、自動車道として開削された小森林道に転用され、現在の県道367号薄小森線へと至ったという。その森林軌道の痕跡を見つけるべく、2年前にも一度、この県道を訪れているのだが、その時点では、ウェブ上にも小森森林軌道に関する情報がほとんど無かったこと、また、辛うじて見つかった数少ない情報の中で、かつての軌道敷は現在の県道にほぼそのまま転用されてしまっている、との記述を見ていたので、県道を一通り辿っては見たものの、特にこれと言った発見も無く、ほぼ軌道に対する妄想を膨らませるだけで終わっていた。それでも、ときおり対岸に現れる、石垣のような構造物が気にはなっていたのだが・・・。
 
 去年の秋頃、久しぶりに小森軌道についてウェブで検索を掛けてみた。もともと情報が少ない路線だったので、何か新しい情報が出てくることは特に期待もしていなかったのだが、その気持ちを、いい意味で裏切るような思いもよらぬ資料が存在していることが分かった。
 それは、小鹿野町在住の山中正彦さんという方が執筆した『小森森林軌道 マルキョウが刻んだ生活の轍』という資料で、ちょうど去年の8月に発行されたばかりのようだった。ただ、それは一般に販売されているものではなく、図書館にのみ収蔵されている資料のようで、収蔵先は、国立国会図書館、もしくは浦和図書館の2か所となっている(2/4 追記:当然ながら小鹿野の図書館にも収蔵されてます)。とりあえず浦和に行けば、小森軌道についての情報が見れるのか・・・そう思うともういても立ってもいられず、さっそく浦和図書館に出向いて、その資料を閲覧してきた。
 
 そこには、今まで知り得なかった新しい情報が記されていた。前田夕暮がこの小森谷に設立した関東木材合資会社によって大正8年から開設された軌道は、その後、大正14年に両神施業森林組合に売却され、多くの区間で軌道の付け替えが行われたらしい。そして、「ほぼ現在の県道に転用された」というのは、この森林組合への移管後の軌道敷であったらしく、それ以前の開設当初の軌道は、開削時の路線の勾配を重視した結果、何度も小森川の両岸を行き来しながら進んでいたようだ。つまり、以前見た対岸の石垣は、やはり当時の森林軌道の遺構であった可能性が高い。
 そして更には、石垣以外の、森林軌道ならではのある遺構が残っているとの情報も記されていた。そんなものが、この平成の時代まで残っているなど俄かには信じ難かったが、それでも知ってしまった以上、気持ちは逸るばかり・・・。
 よし、行こう!ここ最近は積もるような雪も降っていないようだし、この時期なら藪も落ち着いているはずだ。それに、暖かくなって道沿いのキャンプ場が賑わいだす前に行動したいとも思っていたので、タイミング的にはちょうどいい頃合いだろう。
 
 ちなみに、上記の前田夕暮という人物は、この小森森林軌道を売却後、大正14年に施業地を入川へと移している。入川林道沿いにある夕暮キャンプ場の名前は、この前田夕暮から取ったものだ。
 
 ここは、県道367号線上の広河原。かつての森林軌道の終点だった地点だ。起点は、県道37号線との分岐地点である下原だったのだが、何故こちら側から始めるのかと言うと、『小森森林軌道』(以下、「資料」と称す)において、便宜上こちらを起点として扱っているため、それに倣うこととした。
 
 現在の県道は、ここから先は勾配を上げて更に登って行き林道小森線へと至るが、その舗装路から一段下がったところに、かつての軌道敷と思われる平場がある。
 
 そして、その平場の末端から対岸を見ると、石垣で組まれた橋台のような構造物が見える。前回訪れたときに、軌道関連の遺構であるといいなあ、なんて思い眺めていたこの石垣、やはり当時の森林軌道に関わるものであったようだ。ちなみに、この橋台と対になるこちら側の位置には橋台は無く、大きな自然の岩がある。軌道時代はこの岩と対岸の橋台を結んでいたのかもしれない。
 
 それでは、川に散らばる岩を足掛かりに、向こう側へと渡ってみよう。
 
 対岸へと渡り、橋台の奥へ目をやると、石垣に囲われた平場がある。ここは、水車動力によって運用されていた製材小屋の跡地で、軌道の最末期である昭和17年頃まで使われていたらしい。ちなみに、軌道の献納の決定が昭和13年と書いたが、その後全ての軌道の撤収に4年ほど掛かっており、全ての区間での軌道の運用が終了したのが昭和17年頃であったようだ。
 
 跡地には、なにやら古そうな自転車が打ち捨てられている。軌道の現役当時のものであるかは分からないが・・・。
 
 フェンダーに飾られたエンブレムがなかなかいい味を出しているぞ!
 
 さて、製材小屋のあったというこの場所だが、資料によると、この地点で小森森林軌道に関わる全ての区間が終わっていた訳では無かったようだ。
 
 製材所跡地から、更に上流へ向けて細い踏み跡のような道が見える。ここには木馬道が通っていたのだそうだ。資料によると、製材所を挟んでこの道と反対側にも木馬道があったらしいが、そちら側には明確な道筋を見ることは出来なかった。
 
 序盤の急坂の区間を過ぎると、勾配もだいぶ穏やかになる。当時はこの周辺も伐採されて開けていたかも知れないが、軌道の終了から既に70年以上(!)が経った今、再び杉林に囲まれ鬱蒼とした景色となっている。
 
 そんな道を歩いていると、驚いたことに路肩に石垣が現れた。
 
 「驚いたことに」とは言ったが、実は見つけたのは去年の年末に下見に来た時だったんだが(笑)。それでも、まさかこの木馬道に石垣が残っているとは・・・!予想外の展開に、見つけたときはかなりテンション上がった!
 
 だが、ここから先の路盤は土砂や岩が堆積し、普通に歩くだけでも慎重にならざるを得ない。
 
 路上にこんな太い木が生長しているのを見ても、どれだけ長い時間が経ったのかということが分かるものだ。
 
 そしてそのすぐ先で、道は淵に落ち込んで途絶えていた。製材所跡地からここまで100m程だと思うが、資料によると、この先にもまだ木馬道が延びていたようだが、この奥にその痕跡らしきものを見つけることは出来なかった。
 
 県道へと戻り、起点へ向けて下って行く。ここから数百m程は、ほぼ現在の県道と同じルートだったようだ。
 
 前方に見えるのはキャンプ場のバンガローのようだが、開設当時の軌道は、この辺りで一旦対岸へと渡ったようだ。
 
 そういう目でると、あの対岸に見える窪みも、軌道の路盤に見えてくるような気もするが・・・。
 
 更に下って、ここは林道中尾線との分岐地点。ここには稼行夫の長屋があったという。そして、この地点の手前で開設当時の軌道はこちら側へ渡り、またすぐに右岸へと渡っていたそうだ。
 
 この地点はシバゴヤ沢との出合になっていて、それを避けるために川を渡ったのだろうか。ちなみに上の写真に写る石垣は軌道本線のものではなく、ここからシバゴヤ沢に沿って延びていた木馬道のもののようだ。
 
そのすぐ下流側にある平場は、柴小屋土場があった場所で、ここに木馬で木材が運び出されていたそうだ。
 
その土場を過ぎると軌道は再び左岸へと渡り、ここから1km程は現在の県道と重なるルートとなっていたようだ。
 
 土場から少し進んだ路肩に石垣が残る地点がある。資料によると、この辺りに炭検査場があったようだが、これがその跡だろうか。
 
 土場跡から500m程下ってくる。かつてここには製材の第一工場があったという。
 
 そして、この地点から丸神の滝へと向かう歩道が分岐しているのだが、実はこの道も、かつての木馬道を利用したものであったようだ。
 
 対岸を見ると、ちょうど上から一人のハイカーが下っていたところだったが、その動きを見ていると、険しい崖に穿たれた道はかなりの勾配がある様に見える。あんなところを木馬で木材の運搬をしていたのか。凄いな・・・。
 
 そこから少し下ると、丸神の滝へと向かうもう一か所の入口がある。
 
 この地点には滝前分校跡が残っているが、その脇をかすめるように軌道跡が延びている。
 
 これは県道上から見たものだが、画像中央を横切る石垣が、その軌道跡だ。ただ、この石垣は、開設当初の関東木材合資会社(マルキョウ)から、施業森林組合に管理が移ってから新たに築かれたもので、開設当初の軌道はこの下の平場を通っていたようだ。ちなみに資料のタイトルにもなっている「マルキョウ」とは、伐採・製材した木材に記した刻印が「共」の文字を○で囲った意匠で、そこから付いた通称であったという。
 
 その石垣の上を辿ってみる。ほぼ全ての路盤は土砂で埋もれ斜面と同化している。
 
 石垣こそ残っているものの、自然の力に浸食された道の上は、ここをトロッコが通っていたとは俄かには信じがたいような光景だ。
 
 しばらく進むと、小森川に注ぐ流れ込みによって路盤が途切れている地点がある。
 
 一見、流れ込みによって浸食されたようにも見えるが、良く見ると路盤の際に、石垣のような構造物が見える。恐らくこれは元々こういった地形で、木橋などでここを渡していたのだろう。
 
 これ以上路盤を進めなくなったのでここで引き返す。資料に、ちょうどこの位置から撮った昭和初期の写真が載っていたので紹介しよう。
 
 

 『小森森林軌道 マルキョウが刻んだ生活の轍』 山中正彦(平成25年発行)より転載
 今辿った路盤の上には確かに軌条が敷かれ、その上に木材を積んだトロッコが見えている。今ではほぼ山の斜面の一部と化してしまったこの軌道跡も、こうしてかつての姿を見ると胸が熱くなる。
 
 分校の下から始まる石垣の路盤は、そこから数百mで再び左岸へと渡る。その石垣の突端は、今でもしっかりとその姿を遺している。
 
その対岸を見ると、県道のすぐ脇にも対となる橋台が残っているのが見える。そしてここは、ナカゲイトという吊り橋が掛かっていたのだそうだ。
 
 

 『小森森林軌道 マルキョウが刻んだ生活の轍』 山中正彦(平成25年発行)より転載 
 これがナカゲイト吊り橋の架橋当時の写真だ。この吊り橋自体は、軌道撤収後も昭和30年近くまで残っていたのだそうだ。
 
 ナカゲイト吊り橋で左岸へと渡った軌道は、そのすぐ先で木橋によって再び右岸へと渡り、しばらく右岸を進んでいたようだ。
 
 しかし、この区間は軌道跡と思われるような明確な路盤は確認出来なかった。上の写真の木々の間に、それらしい段差が見えるような気もするが、あれが路盤だとすると、その位置が川面に近過ぎるような気もするし・・・。
 
 しばらくは軌道跡の不明瞭な対岸の斜面を眺めながら進むことになり、本当にここに軌道が通っていたのだろうか、と疑問に思い始めた頃、それでも何かしらの痕跡が無いかと目を凝らして見ていると、ちょうど上の写真の矢印の位置に・・・。
 
 うおっ!石垣が残ってる!す、すごい、ぱっと見ではもはや自然の斜面にしか見えないようなこの場所にも、確かに軌道が通っていたんだ・・・。
 
 そういう目で見ると、その先にも確かに路盤のような筋が見えてくるような気がするから不思議なものだよなあ。
 
Aへ続く。